10月23日で中越地震から12年が経ちました。
その年に生まれた赤ちゃんがもう小学6年生になるわけですから、時がたつのは早いものです。
今年も全国でたくさんの災害がありましたが、多くの方の「なんとかしたい」というモチベーションが、いろんな協働を生みました。
感謝が溢れる良い復興に、地元民としてとても心強く思った記憶があります。
先日、ある社長が訪ねてきてくれ、私にこう問いかけました。
「君は長岡とはどういう町だと思う?」
「私はね、長岡は城下町だと思うよ」
「だってみんなこの町を誇りに思ってると感じないかい?」
「私はね、長岡は城下町だと思うよ」
「だってみんなこの町を誇りに思ってると感じないかい?」
と。
確かにそうです。
長岡の人は、多かれ少なかれ長岡に愛と誇りを持っているように感じます。
そして続けて最後に私にこう聞きました。
「君はなんのために働いてるのかい」
目的をもった多様な主体が集まり、互いに助け合い目的に近づけるのが協働です。
「なんのために」は、もちろん協働するためにではなく、目的のために協働するのです。
その「なんのために」が明確になる場面というのが、災害などの普段のあたりまえの暮らしができなくなるという共通な困難があるときです。
その「なんのために」が明確になる場面というのが、災害などの普段のあたりまえの暮らしができなくなるという共通な困難があるときです。
わかりやすく目的を共有し、それぞれができることを探すので、地域の協働力はとても向上します。
ただ、当たり前の世の中が戻ってくるとどうでしょう?
大切な地域を思うきっかけから協働が生まれましたが、今の協働のモチベーションはどこにあるでしょうか?
大切な地域を思うきっかけから協働が生まれましたが、今の協働のモチベーションはどこにあるでしょうか?
ここから持論ですが、協働が進むと副産物として相互依存があらわれます。
良いとか悪いとかではなく、助け合いの社会なので当然生まれて然るべしであり、コミュニテイ単位での相互依存は必要な要素です。
ただそれが、自分がやらねばというモチベーションを打ち消す作用もあるのかなと思います。
マイナスからゼロにする力と、ゼロからイチを生み出す力。
地域が活力を増すにはそのどちらの力も必要です。
協働によって生まれる良い部分と、依存してある種「茹でガエル」になってしまっている部分。
今の長岡はどちらもが共存しているように思います。
おそらく、マイナスからゼロに比べて、ゼロからイチのギアはそう簡単には入りません。
震災はマイナスからゼロのギアを入れただけで、プラスのギアは自分たちの心で入れる必要があるからです。
震災はマイナスからゼロのギアを入れただけで、プラスのギアは自分たちの心で入れる必要があるからです。
当たり前が当たり前じゃない経験をしている地域だからこそ、当たり前の次のステージを創造していくギアを自ら入れていきたいと感じました。
「バットを振り続けることで見えてくる世界がある」
さっきの社長が私にくれた言葉です。
とりあえずがむしゃらに前を見てバットを振り続けてみます。
樺沢 敦