私の好きな言葉の一つに「水槽は湛え、泉は湧き出す」というウィリアム・ブレイクの言葉があります。
最近、いろんな場面でこの言葉を思い出します。
意味としては、水槽のように枠の決まったものに水を注げば満水にすることはできるけど、蒸発して消えてしまう。逆に自ら水を湧き出す泉になれば、注ぐことをやめても水がなくなることはない、ということかと思います。
これはよく、子どもの教育に例えて言われますね。
子どもの頭に知識を詰め込む教育だと時がたてばいずれ忘れてしまうかもしれないが、アイディアや発想がどんどん湧き出てくるような考える力をつけると、その場での知恵は尽きることがない、というような解釈でしょうか。
とてもわかりやすくて、私の子どもに対する教育にもドストライクな表現だなぁと、常に胸においていました。
子どもの教育としては、私自身、あまり知識を与えてやれていない親だなぁと反省しながらも、子どもがくだらないことを考える機会は設けているつもりです。
接する時間で言ったら、正直少なくて申し訳ないなぁと思いながらも、子どもの「らしさ」や「想定外」の発想を見る機会には、さらに一緒に創造して楽しんでいる親でいることで、子ども自身がパルプンテな発想を生み出すのが「楽しい」と感じてもらえる環境は保っていきたいと思っています。
この考え方、仕事上やいろんな場面で例えてみると、見事にはまることが多いんです。
まず、私がやっている市民活動支援やコンサルのなかでも、与えることを求めている人もいれば、やり方に気付くまで同じ視線で走ってほしいと求める人もいる。
アウトソースってのは大事なんだけど、その水槽、いつか枯れちゃいますよ?って思うこともあるんですよね。
型はできたからとにかくいいと思うことを詰め込む組織と、最善策が湧き出す土壌を作れる組織。
やってることが同じでも、将来的にはすごい差が開いちゃってると思いますよね。
あとこれも教育といえば教育なんですが、先日、米百俵塾というセミナーに参加して、かつて長岡藩がやった教育は、エリート教育で偉人を排出したのではなく、その発想の土壌というか、風土を作った取り組みだったんだなぁと。
史実としては、学識者や各分野の偉人が輩出されているので、徹底的なエリート教育だったように見られている節もあるけれど、そうではなくて、考えて前進する理由や、風土つくりに取り組んだんじゃないかなぁと強く感じました。
もう一つ、これは全然違う捉え方だけど、都会と田舎の比喩の様な見方もできます。
まっすぐに考えるなら、食というテーマ。
私は食の専門家ではないので詳しいことはわからないけど、口に入るものを開発しようとしたら、農場でとれるものじゃなくても、もっと効率よくつくることはできるんだろうなぁと思います。
全人類の腹を水槽に例えるなら、効率よく生産して満たすことは、きっといろいろと可能なんだろうなと。
でもそれにばかり目を向けていると、大切な土壌という泉がつぶされてしまいます。
私は地産地消とか、農業を守るとか、実はあまり興味がわかないんですが、土を守らなきゃいけないって、すごく強く思っています。そのために、農業が継続できる地域でなきゃいけないっていう意味では、農業に興味があるんですがね。
インディアンの格言で、「土地は先祖からの授かりものではなく、子ども達からの預かりもの」という言葉がある。
当時の真意では、住みつく場所の意味で表現したのかもしれないけど、私は、この土地は土壌のことを言っているのかなぁと思っています。
水槽と泉、コンクリートと畑、情報社会とコミュニティ社会。
なんだか田舎で情報にとらわれずに生きることが、ずっと幸せだなぁとつくづく感じてきます。
��私は情報にとらわれまくってる部類ですが。。。)
昔、7つの習慣に出てきた緊急重要マトリクスの図を見たのを思い出すと、何が重要で、何が緊急のことなのか、価値観によって変わってくるとは思いますが、泉と表現できる様々な事柄は、緊急性の低い、最重要なことなんじゃないかなぁと思うわけです。
子どもの教育も、組織運営も、地域の風土づくりも、食の土壌も。
泉が大切だという価値観の世の中になったらいいなぁと、日々いろんな枠の中で生活しております。
いろんな枠はありますが、水槽の中にでも湧き出す泉を作ってみましょうか。
そんなことを考えて行動していきます。
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