2015年7月6日月曜日

地方創生という言葉を地方側から考えてみる。

「地方創生」

長岡にいるとよくわからないんですが、最近東京に行ったりするとやたらと聞く言葉です。

まあ今年は地方創生元年とも言われてますから、言葉は当然知ってるわけですが、これっていったいなんだろね。という話題によくなります。

先日も東京でイベントやった際に、新聞記者さんから「これは地方創生の取り組みですか?」ってきかれて、「はぁ、まぁ」としか言えず、明確に答えられない部分もありました。

これって、「これは市民協働の取り組みですか?」って質問受けてた時と同じ「はぁ、まぁ」という言葉が返るわけですが、言葉が独り歩きして危険な場合の流れな気がして。

言葉だけ「地方創生」って聞くと、「地方も東京みたいに頑張れや!そんでちゃんと税金収めんといかんぞ」と言われているような気がして、ちょっと引け目を感じたりします。
でも、全国一律東京みたいな国って、なんか住みたくないなと思ったりもして。。


ということで、「地方創生」ってなんぞや?ってことを考えてみたいと思います。

そもそも、なぜ地方創生する必要があるのか。
考えられる理由をいくつか挙げてみます。

①東京集中問題。
このあたり、予想するにもう限界なんでしょうかね。何がって、介護もそうだし交通インフラも生活インフラも。きっと想定を超える人口増に、インフラ整備が追い付いていないというのが実情でしょうか。田舎にインフラが整備されているかというと、もっと過酷な環境もあると思いますけど。

②少子化対策
出生率を見る限り、地方の方が出生率が高い。これはまぁ子育てしやすさとかももちろんありますが、子孫繁栄を願うのが当たり前の地域と、多様性を認める地域と、という違いもあるかと思いますね。
(親や世間からせっつかれて逆に生きづらさもあると思いますけど。)
あとは、他にやることもないので家族もって楽しく暮らしましょっていう文化とかですかね。

③資本主義ビジネスモデルの崩壊
この辺は賛否分かれる話になりそうですが。。
これまでどちらかというと都会は資本主義、地方は社会主義みたいな風潮があったと思います。
資本主義が富を増やし、社会をよくするという思想が続くのが、ある一定の状態までの分岐点があったのかもしれません。大量生産大量消費の時代から少し変わってきているように感じるのも、それを裏付けるものなのかと。。


などなど、いろんな理由が想像できます。

国から考えると、一番の理由は人口構成比率の正常化ってとこでしょうかね。
確かにバランス崩れてますから、支えあえるもんも支えあえない構図になってます。

でも、地方からしたらそれが課題かといわれると、そういうわけでもありません。
他の理由も、地方としての課題とリンクする問題でもないかも知れません。


では地方として、この地方創生をどのようにとらえて、ビジョン共有していけばいいのか。
そんなことを自分なりに考えてみます。

国は資本主義で尖った結果、持続可能な国づくりが危うくなった。
だから資本主義に失敗しても生き残ってる地方のモデルから、何かしらヒントがあるんじゃないかってことを探ろうとしてるんじゃないかと。

「資本主義に失敗」は言い過ぎかもしれませんが、いい意味でも悪い意味でも資本至上主義にはなってないのは事実です。

そこでのキーワードとして、持続可能な社会。
これは結構肝なキーワードかと思います。

エコロジカルフットプリントが示すような環境問題提起みたいな話ではなく、ずっと続く社会。
これを作るのは地方にエッセンスがあるのかもしれないというのは、とても感じます。

仮に国の国民に対する目的が

①社会が不公平なくまわること
②個々人が豊かな人生をおくること
③未来に暮らしがつながっていくこと

だとします。

当然、どれも可能にしていきたいなかで、本当にせっぱつまった時の優先順位ってあるんだと思います。
この優先順位が、都会と地方で違うのかもしれませんね。


持続可能な社会を考えた時に、富がどういきわたるかの議論だけでなく、将来の話をしなくてはいけないんだと思います。


資本主義は、富の増幅にはとても優れた仕組みです。
社会主義は、富の分配にはとても優れた仕組みです。

どちらだけでもダメな気がします。
それで行政があり、民間があり、という役割分担があるのでしょう。

ビジネスでは受益者と消費者が同一のことが多く、未来的な価値に対して消費するには、それ相当の自己説得材料が必要でしょうし、行政施策の根幹にある選挙では、自分の暮らしに対してポジティブな施策を打ち出す候補者に入れる傾向がある。
そう考えると、実際に将来に対してどのポジションが考えるのか、ってのが抜けているような気がします。

地方は、図らずしてこういった制度を駆使して成功した地域が少ないため、ビジネス視点と行政視点と、もう一つの視点を持っています。
成功体験が少ない地域だからこそ、それでも死なないために助け合って生きていくという視点。
つまり「おかげさま」または「足るを知る」という視点。
自分が生きているのは、誰かほかの人がいるからで、その人のおかげでもあるし、その人のために何かを残しておこうという視点。
そういうことが、仕組から外れてしまった地域が残しているものだと思います。
この視点を、持続可能な社会づくりにしたときに

少し概念めいた話ですが、それが一つです。

ただ、それだけだと地方創生は概念めいたことを取り戻そうという啓蒙活動になってしまいます。
国家レベルで動いてそれだけであるはずはありません。
もう少し踏み込んだところで、地方にかける可能性の要素を出してみたいと思います。

それは、土があり、水があり、それを大切にしてきた人がいるということ。

また概念的な話かと思うかもしれませんが、これはとてもビジネスライクなこと。

IPOっていう考え方でビジネスをとらえた場合、
I=インプット(生み出し)があり、
P=プロセス(加工編集)があり、
O=アウトプット(消費)がある
というシンプルなビジネスの根幹があります。
これに加えて、D=デリバリー(流通)も加えてもいいかもしれません。

言わずもがな、首都圏には消費があり、そのニーズに応えるべく様々なプロセスがビジネスとして成り立っています。
情報がビジネスとして成り立っていることも考えると、ゼロから生み出す情報もインプットと捉えられるかもしれませんが、衣食住の基本的な生活インフラからすると、インプットは地方から出てきているものがほとんどです。

島国として他国の景気に左右されない安定した社会を作ろうと思ったら、農業をはじめとしたエネルギーや木材、飲料水等を生み出す力は欠かせない要素になってきます。

シンガポールや香港のように農地をなくして経済発展してきた国も、食料自給率や安心安全な食という切り口で農業が再開発され始めています。

時代は今、その住む場所にある自然から生み出す力を見直さなければならない時だと思います。
そういった意味での地方創生なんじゃないかと考えます。

だから、東京や海外にモノを売りに出すのが地方創生なのではなく、地方にはずっと暮らせる力があるということを、地域に住む住民1人1人が認識しなおすことが地方創生なんだと思います。

継続的に生み出す力を最大限に。
10本生えたら9本使って1本は次の世代に残しておく。
まさに地方ならではの「足るを知る」文化。
奪い合って枯らすことはやめて、食もエネルギーも、生み出し続けることができる資源に感謝し、人がそれを未来につなげてほどよく使っていく。そんな地域を少しずつ増やしていく。
これが地方創生の根幹にあるところですね。

水槽は湛え、泉は湧き出す。

水槽は消費で、泉は自然であり教育である。

そう捉えると、地方創生ってのは次世代につなげていく「足るを知る」教育を施すことなのかもしれませんね。

つまり長岡でいう地方創生の根幹は、「米百俵の再教育」といったところでしょうか。
これはこれで、やることがたくさんありそうですね。

ということで、意味も分からずに騒がれる地方創生に踊らされないために整理してみました。
あくまで個人的解釈ですので、あしからず。

株式会社FARM8 
樺沢 敦



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