うっかりしてました。
私としたことが。
��月2日3日に行われる今年の長岡まつりまで、半年を切ってることを忘れていました。
夏に向けてテンションを上げ始める自分と、同じような感覚の皆さんのために。
��013年の長岡まつりの動画を元に、長岡花火の復習と予習を行いましょう。
あの素晴らしい感動をもう一度。
ではどうぞ!
ナイアガラ~正三尺玉
天地人花火2013
この空の花
米百俵花火-尺玉100連発
フェニックス9
以上です。
みんなでテンション上げて8月2日3日を待ちましょう!
今年は土日です!
初めての方も、価値観人生観すべて総入れ替えできちゃうインパクトの絶対見るべき心に響く花火です。
ただそれだけの投稿でした。
ではでは~。
2014年2月6日木曜日
2013年10月31日木曜日
水槽は湛え、泉は湧き出す
私の好きな言葉の一つに「水槽は湛え、泉は湧き出す」というウィリアム・ブレイクの言葉があります。
最近、いろんな場面でこの言葉を思い出します。
意味としては、水槽のように枠の決まったものに水を注げば満水にすることはできるけど、蒸発して消えてしまう。逆に自ら水を湧き出す泉になれば、注ぐことをやめても水がなくなることはない、ということかと思います。
これはよく、子どもの教育に例えて言われますね。
子どもの頭に知識を詰め込む教育だと時がたてばいずれ忘れてしまうかもしれないが、アイディアや発想がどんどん湧き出てくるような考える力をつけると、その場での知恵は尽きることがない、というような解釈でしょうか。
とてもわかりやすくて、私の子どもに対する教育にもドストライクな表現だなぁと、常に胸においていました。
子どもの教育としては、私自身、あまり知識を与えてやれていない親だなぁと反省しながらも、子どもがくだらないことを考える機会は設けているつもりです。
接する時間で言ったら、正直少なくて申し訳ないなぁと思いながらも、子どもの「らしさ」や「想定外」の発想を見る機会には、さらに一緒に創造して楽しんでいる親でいることで、子ども自身がパルプンテな発想を生み出すのが「楽しい」と感じてもらえる環境は保っていきたいと思っています。
この考え方、仕事上やいろんな場面で例えてみると、見事にはまることが多いんです。
まず、私がやっている市民活動支援やコンサルのなかでも、与えることを求めている人もいれば、やり方に気付くまで同じ視線で走ってほしいと求める人もいる。
アウトソースってのは大事なんだけど、その水槽、いつか枯れちゃいますよ?って思うこともあるんですよね。
型はできたからとにかくいいと思うことを詰め込む組織と、最善策が湧き出す土壌を作れる組織。
やってることが同じでも、将来的にはすごい差が開いちゃってると思いますよね。
あとこれも教育といえば教育なんですが、先日、米百俵塾というセミナーに参加して、かつて長岡藩がやった教育は、エリート教育で偉人を排出したのではなく、その発想の土壌というか、風土を作った取り組みだったんだなぁと。
史実としては、学識者や各分野の偉人が輩出されているので、徹底的なエリート教育だったように見られている節もあるけれど、そうではなくて、考えて前進する理由や、風土つくりに取り組んだんじゃないかなぁと強く感じました。
もう一つ、これは全然違う捉え方だけど、都会と田舎の比喩の様な見方もできます。
まっすぐに考えるなら、食というテーマ。
私は食の専門家ではないので詳しいことはわからないけど、口に入るものを開発しようとしたら、農場でとれるものじゃなくても、もっと効率よくつくることはできるんだろうなぁと思います。
全人類の腹を水槽に例えるなら、効率よく生産して満たすことは、きっといろいろと可能なんだろうなと。
でもそれにばかり目を向けていると、大切な土壌という泉がつぶされてしまいます。
私は地産地消とか、農業を守るとか、実はあまり興味がわかないんですが、土を守らなきゃいけないって、すごく強く思っています。そのために、農業が継続できる地域でなきゃいけないっていう意味では、農業に興味があるんですがね。
インディアンの格言で、「土地は先祖からの授かりものではなく、子ども達からの預かりもの」という言葉がある。
当時の真意では、住みつく場所の意味で表現したのかもしれないけど、私は、この土地は土壌のことを言っているのかなぁと思っています。
水槽と泉、コンクリートと畑、情報社会とコミュニティ社会。
なんだか田舎で情報にとらわれずに生きることが、ずっと幸せだなぁとつくづく感じてきます。
��私は情報にとらわれまくってる部類ですが。。。)
昔、7つの習慣に出てきた緊急重要マトリクスの図を見たのを思い出すと、何が重要で、何が緊急のことなのか、価値観によって変わってくるとは思いますが、泉と表現できる様々な事柄は、緊急性の低い、最重要なことなんじゃないかなぁと思うわけです。
子どもの教育も、組織運営も、地域の風土づくりも、食の土壌も。
泉が大切だという価値観の世の中になったらいいなぁと、日々いろんな枠の中で生活しております。
いろんな枠はありますが、水槽の中にでも湧き出す泉を作ってみましょうか。
そんなことを考えて行動していきます。
最近、いろんな場面でこの言葉を思い出します。
意味としては、水槽のように枠の決まったものに水を注げば満水にすることはできるけど、蒸発して消えてしまう。逆に自ら水を湧き出す泉になれば、注ぐことをやめても水がなくなることはない、ということかと思います。
これはよく、子どもの教育に例えて言われますね。
子どもの頭に知識を詰め込む教育だと時がたてばいずれ忘れてしまうかもしれないが、アイディアや発想がどんどん湧き出てくるような考える力をつけると、その場での知恵は尽きることがない、というような解釈でしょうか。
とてもわかりやすくて、私の子どもに対する教育にもドストライクな表現だなぁと、常に胸においていました。
子どもの教育としては、私自身、あまり知識を与えてやれていない親だなぁと反省しながらも、子どもがくだらないことを考える機会は設けているつもりです。
接する時間で言ったら、正直少なくて申し訳ないなぁと思いながらも、子どもの「らしさ」や「想定外」の発想を見る機会には、さらに一緒に創造して楽しんでいる親でいることで、子ども自身がパルプンテな発想を生み出すのが「楽しい」と感じてもらえる環境は保っていきたいと思っています。
この考え方、仕事上やいろんな場面で例えてみると、見事にはまることが多いんです。
まず、私がやっている市民活動支援やコンサルのなかでも、与えることを求めている人もいれば、やり方に気付くまで同じ視線で走ってほしいと求める人もいる。
アウトソースってのは大事なんだけど、その水槽、いつか枯れちゃいますよ?って思うこともあるんですよね。
型はできたからとにかくいいと思うことを詰め込む組織と、最善策が湧き出す土壌を作れる組織。
やってることが同じでも、将来的にはすごい差が開いちゃってると思いますよね。
あとこれも教育といえば教育なんですが、先日、米百俵塾というセミナーに参加して、かつて長岡藩がやった教育は、エリート教育で偉人を排出したのではなく、その発想の土壌というか、風土を作った取り組みだったんだなぁと。
史実としては、学識者や各分野の偉人が輩出されているので、徹底的なエリート教育だったように見られている節もあるけれど、そうではなくて、考えて前進する理由や、風土つくりに取り組んだんじゃないかなぁと強く感じました。
もう一つ、これは全然違う捉え方だけど、都会と田舎の比喩の様な見方もできます。
まっすぐに考えるなら、食というテーマ。
私は食の専門家ではないので詳しいことはわからないけど、口に入るものを開発しようとしたら、農場でとれるものじゃなくても、もっと効率よくつくることはできるんだろうなぁと思います。
全人類の腹を水槽に例えるなら、効率よく生産して満たすことは、きっといろいろと可能なんだろうなと。
でもそれにばかり目を向けていると、大切な土壌という泉がつぶされてしまいます。
私は地産地消とか、農業を守るとか、実はあまり興味がわかないんですが、土を守らなきゃいけないって、すごく強く思っています。そのために、農業が継続できる地域でなきゃいけないっていう意味では、農業に興味があるんですがね。
インディアンの格言で、「土地は先祖からの授かりものではなく、子ども達からの預かりもの」という言葉がある。
当時の真意では、住みつく場所の意味で表現したのかもしれないけど、私は、この土地は土壌のことを言っているのかなぁと思っています。
水槽と泉、コンクリートと畑、情報社会とコミュニティ社会。
なんだか田舎で情報にとらわれずに生きることが、ずっと幸せだなぁとつくづく感じてきます。
��私は情報にとらわれまくってる部類ですが。。。)
昔、7つの習慣に出てきた緊急重要マトリクスの図を見たのを思い出すと、何が重要で、何が緊急のことなのか、価値観によって変わってくるとは思いますが、泉と表現できる様々な事柄は、緊急性の低い、最重要なことなんじゃないかなぁと思うわけです。
子どもの教育も、組織運営も、地域の風土づくりも、食の土壌も。
泉が大切だという価値観の世の中になったらいいなぁと、日々いろんな枠の中で生活しております。
いろんな枠はありますが、水槽の中にでも湧き出す泉を作ってみましょうか。
そんなことを考えて行動していきます。
2013年9月25日水曜日
すきなまちにてをくわえてすてきなまちに
働き方を変えて、ちょうど1週間。
現在、アオーレ長岡の市民協働センターというところにいます。
全体が見えてきて、ようやく活動開始!というところでしょうか。
1週間で色んな人に会う機会があり、新しい門出で、いったい何してんの?という質問を多くいただき、全くその通りだなと思ったので、少し解説を。
まずは、私の活動のコンセプト。
これはいろんな所で言っているので、耳タコかもだけど、
「スキなまちに手(テ)を加えてステキなまちに」ということ。
若干の自己満感はにじみ出てるかもしれないですが、
それが幸せなんだから、何と言われようとそれでよい。
さてさて、それでは市民協働センターで私のお仕事について。
まず、そもそも市民協働ってなんだ?と言われると、辞書的にはこう。
【「異種・異質の組織」が、「共通の社会的な目的」を果たすために、「それぞれのリソース(資源や特性)」を持ち寄り、「対等の立場」で「協力して共に働く」~日本NPOセンター~】
なんだか難しい言い方ですが、言い換えるとこう。
「大切にしたいものが同じとき、人と人は化学反応を起こす。組織の垣根を外して手を取り合い
お互いに尊重し合いながら、大切なものを守る最善の策を進めていきましょう!」
ということ。
「組織」っていうのは、行政や企業、市民活動団体やNPO、学校や地域などなど。
これらにとって、垣根って絶対存在してると思うんですよね。
それぞれ立場が違うから。
企業を「営利を目的とした~」なんて表現しているうちは協働なんて絶対に成り立たないわけですよね。笑
それぞれに社会的目的はあるし、「富の創造と分配」と「豊かさの公平性」が必要なのが経済ですから、役割分担して、きちんと回ってるんだと思います。
その、役割が違うけど社会的目的が違う組織同士が、得意分野を持ち寄って最善策で豊かさを追求しましょう!というものです。
まぁ、わかるようなわからないような。。
市民協働の意味についてはこんなところです。
意味の説明では本題ではないので、ここから本題です。
そうはいっても協働を推進するだけで上手くいかないことがある。
なんでかっていうと、協働は手段だから。
その手段を提示するだけでは何も変わらない。
じゃあ目的は?
目的を提示したところで、人から言われた目的なんて、って感じがしません?
もっと大切なことがあると考えています。
長岡ならではの「米百俵の精神」に、こんな一節があります。
【まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある】
そう、ことごとく人にあるんです。
組織が動くのも人だし、大切にしたいと思うのも人。
協力するのも人だし、最善を尽くすのも人です。
先人は、これを教育にあてました。
現代の場合は何が適しているでしょう。
私は、何かのために行動できる風土づくりと考えます。
だから、幸せなまちのステップはこうかな?と。
①みんながまちをスキになる。
②スキなまちが、ステキなまちになってほしいと願う。
③ステキなまちにするために、自分にできることはないかと考える。
④スキなまちのために行動する喜びを知る
⑤スキなまちに手を加えてステキなまちになりつづける。
これを、今の私の業務に当てはめると、
普段以下のようなことを考えて試行錯誤しています。
①まちを好きになるにはどうしたらいいか。
②みんなが想うステキなまちってどんなまちか。
③行動したいと思った時に、行動できる体制は整っているか。
④続けたいと思う行動を、継続させるにはどうしたらいいか。
⑤より多くの人がその思いで行動し、地域性として次世代まで残るにはどうしたらよいか。
つまり、日々試行錯誤しながら迷子中っていうことですね。
企業の人も、NPOや市民団体の人も、一般市民の人も、行政の人も。
上記に当てはまるステップかなと思ったら相談しに来てください。
解決策をもってるかどうかわかりませんが、前には進めますよ、きっと!
知り合いのキンちゃんという方の名刺にはこう刻まれています。
(文昭さん、言葉お借りします)
「動けば変わる!止まれば太る!」

現在、アオーレ長岡の市民協働センターというところにいます。
全体が見えてきて、ようやく活動開始!というところでしょうか。
1週間で色んな人に会う機会があり、新しい門出で、いったい何してんの?という質問を多くいただき、全くその通りだなと思ったので、少し解説を。
まずは、私の活動のコンセプト。
これはいろんな所で言っているので、耳タコかもだけど、
「スキなまちに手(テ)を加えてステキなまちに」ということ。
若干の自己満感はにじみ出てるかもしれないですが、
それが幸せなんだから、何と言われようとそれでよい。
さてさて、それでは市民協働センターで私のお仕事について。
まず、そもそも市民協働ってなんだ?と言われると、辞書的にはこう。
【「異種・異質の組織」が、「共通の社会的な目的」を果たすために、「それぞれのリソース(資源や特性)」を持ち寄り、「対等の立場」で「協力して共に働く」~日本NPOセンター~】
なんだか難しい言い方ですが、言い換えるとこう。
「大切にしたいものが同じとき、人と人は化学反応を起こす。組織の垣根を外して手を取り合い
お互いに尊重し合いながら、大切なものを守る最善の策を進めていきましょう!」
ということ。
「組織」っていうのは、行政や企業、市民活動団体やNPO、学校や地域などなど。
これらにとって、垣根って絶対存在してると思うんですよね。
それぞれ立場が違うから。
企業を「営利を目的とした~」なんて表現しているうちは協働なんて絶対に成り立たないわけですよね。笑
それぞれに社会的目的はあるし、「富の創造と分配」と「豊かさの公平性」が必要なのが経済ですから、役割分担して、きちんと回ってるんだと思います。
その、役割が違うけど社会的目的が違う組織同士が、得意分野を持ち寄って最善策で豊かさを追求しましょう!というものです。
まぁ、わかるようなわからないような。。
市民協働の意味についてはこんなところです。
意味の説明では本題ではないので、ここから本題です。
そうはいっても協働を推進するだけで上手くいかないことがある。
なんでかっていうと、協働は手段だから。
その手段を提示するだけでは何も変わらない。
じゃあ目的は?
目的を提示したところで、人から言われた目的なんて、って感じがしません?
もっと大切なことがあると考えています。
長岡ならではの「米百俵の精神」に、こんな一節があります。
【まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある】
そう、ことごとく人にあるんです。
組織が動くのも人だし、大切にしたいと思うのも人。
協力するのも人だし、最善を尽くすのも人です。
先人は、これを教育にあてました。
現代の場合は何が適しているでしょう。
私は、何かのために行動できる風土づくりと考えます。
だから、幸せなまちのステップはこうかな?と。
①みんながまちをスキになる。
②スキなまちが、ステキなまちになってほしいと願う。
③ステキなまちにするために、自分にできることはないかと考える。
④スキなまちのために行動する喜びを知る
⑤スキなまちに手を加えてステキなまちになりつづける。
これを、今の私の業務に当てはめると、
普段以下のようなことを考えて試行錯誤しています。
①まちを好きになるにはどうしたらいいか。
②みんなが想うステキなまちってどんなまちか。
③行動したいと思った時に、行動できる体制は整っているか。
④続けたいと思う行動を、継続させるにはどうしたらいいか。
⑤より多くの人がその思いで行動し、地域性として次世代まで残るにはどうしたらよいか。
つまり、日々試行錯誤しながら迷子中っていうことですね。
企業の人も、NPOや市民団体の人も、一般市民の人も、行政の人も。
上記に当てはまるステップかなと思ったら相談しに来てください。
解決策をもってるかどうかわかりませんが、前には進めますよ、きっと!
知り合いのキンちゃんという方の名刺にはこう刻まれています。
(文昭さん、言葉お借りします)
「動けば変わる!止まれば太る!」

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